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ロドマック
Rodemack

その他

歴史

 ロドマック(Rodemack)は、907年にドイツのフルダ修道院とエシュテルナッハ修道院の間に交わされた勅許状に初めてその名が登場する。フルダ修道院は、領地であるロドマックとベルグの地がフルダから離れていたため、907年にエシュテルナッハの領地と交換した。1019年には、「ロドマックの領主」について初めて言及されており、1190年ごろには、ロドマック領主アルノー公がエシュテルナッハの領土の一部を強奪して城を築いたことが記録されている。当初から、ロドマックの領主はルクセンブルクの臣下で、地元では最も有力な貴族のひとつとして名を馳せていた。ロドマックを含めティオンヴィルの周りの地方は17世紀までルクセンブルクの一部だった。そこでロドマックの領主たちは、重要な地位につくこともしばしばだった。

 1300年ごろ、ジル2世がロドマックの城を増築し、岩の中に巨大な堀を作らせてふたつ目の城塞を築いた。15世紀初め、ロドマック家は全盛期を迎えるが、長くは続かなかった。1443年にブルゴーニュ公フィリップ3世がルクセンブルクを支配下におさめた頃から状況は一変した。1477年にブルゴーニュ公シャルル豪胆王がフランス軍にナンシー郊外で敗れ、ブルゴーニュ公国はフランス王領に編入された。その娘マリー・ド・ブルゴーニュはハプスブルク家のマクシミリアンと結婚し、ルクセンブルクはハプスブルクの領地となった。ロドマックの最後の二人の城主たちは、フランス王と同盟を結び、このことがきっかけでハプスブルク家マクシミリアン1世の怒りを買い、1492年に領地を取り上げられてしまう。マクシミリアン1世は、その取り上げた領地を、当時ルクセンブルクを支配していた彼の甥、マールバラ公クリストフ1世に与えた。マールバラ家は、この後1796年までロドマックを支配した。

 16世紀から17世紀にかけて、ロドマックはフランスとスペインの侵略に脅かされ続けた。フランスは、2世紀の間に7度ロドマックを征服し、そのたびスペインに奪われた。そして1678年、フランスが最終的にロドマックを手に入れ、1769年にヴェルサイユ条約でフランスとルクセンブルクの国境が定められるまで、フランス軍営をロドマック城においた。

 18世紀末、ロドマックはふたたび波乱の時を迎える。53の家々や納屋、家畜小屋を焼き尽くした1790年の大火事に続いて、1792年、ヴァルミーの戦いの直前に、プロイセン軍ブラウンシュヴァイク公の攻撃を受ける。この時ロドマックを危機から救ったのは、リュクネール元帥だった。1815年6月24日、ワーテルローの戦いの6日後、ロドマックはまたもプロイセン軍の攻撃を受ける。しかしこの時、数千名のプロシア兵は、わずか450名のフランス兵にさんざんに負かされ、たったの4時間で引き上げていった。1815年11月20日のパリ条約によって、ロドマックの城砦は1821年に取り壊された。軍事用の建物の多くと、北西側の城壁すべてが、このとき取り壊された。1869年から1871年にかけて、ガルガン家のシャルル・ジョセフ男爵が残されていた城塞を買い取った。以後、城塞はガルガン家の所有だったが、2003年に「カッテナムとその周辺共同体」に所有権を譲った。