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ポンタヴェン
Pont-Aven

その他

特産品

ポンタヴェンのクッキーとガレット(Les palets et galettes de Pont-Aven):
クッキーとガレットはポンタヴェンの食の遺産となっている。繊細な歯ざわりで、味は他に比べるものがない。1890年以来今日まで、このふたつの菓子は食通を満足させてきた。村のビスケットの店のうち2軒が昔ながらの製法により伝統を守っている(Biscuiterie Penven/Biscuiterie Traou Mad)。

伝統衣装:
裾が長く、刺繍の入ったビロードの袖が広いドレス、パステル調のエプロン、幅のあるプリーツのコルレット(飾り襟)、そしてシルクのリボンのついたアーチ型をしたレースの被り物。ポンタヴェンの衣装はブルターニュ地方でも、もっとも見ごたえのある衣装の一つ。この地で制作活動をした数々のアーティストの作品から世界的にも有名になった。この地方や人々の心を理解しようとしたゴーギャンは、自身の作品のなかでポンタヴェンの衣装の多様さを表現した。それぞれの作品のなかで、労働着や正装、または喪服をまとったポンタヴェンの女性たちの姿が描かれている。

歴史

第一世代:アメリカ人(Américains)
1860年以来、ポンタヴェンの村は多くの画家を魅了してきた。活気のある港、大西洋に向かって広がる川筋、屋外で制作をするのに適した温暖な気候。そして船乗り、農民、粉屋、ブルジョワ階級がいり交じっている村の生活。これらすべてが、芸術家を温かく受け入れるのに適していた。1865年、画家ヘンリー・ベーコン(Henry Bacon)から話を聞いた、アメリカ人画家のロバート・ワィリ(Robert Wylie)が村に滞在することになった。ベーコンは、ワイリに向かって、ポンタヴェンのことを褒めちぎったのだった。
これらの画家がポンタヴェンに集まるのは夏。彼らは、ロンドンをはじめフィラデルフィア、ボストン、ニューヨークのブルックリン、北欧など、世界各地からやってきた。しかし、地元の人は話を簡単にするため、彼らをいっぱひとからげにして、"アメリカ人"と呼んだのだった。これら、第一世代の、伝統を重んじた画家たちが、ポンタヴェンを世に知らしめることになった。

第二世代:改革者(Révolutionnaires)
1840年以前は、絵の具をいかに状態よく保管するかがアーティストの悩みの種であった。 そんななか、チューブ入り絵の具の出現により革新が起こった。画家たちは絵の具を持ち出し、アトリエの外でも絵が描けるようになったのだ。この時期から、屋外で絵を描く画家の姿が見られるようになる。その結果、次第に印象派の画家たちはパリを去り、風景画を描くために田舎を訪れるようになった。そして、異国への思いにかられた最も大胆な者たちが、19世紀半ばになって、ブルターニュを発見することになる。このため、ポンタヴェンのホテルや邸宅には画家たちが身を寄せ、なかにはほとんど無一文に近い者もいた。

ポンタヴェン派(L'Ecole de Pont-Aven)
1886年、ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)はポンタヴェンを訪れる。彼はピサロ(Pissarro)の弟子であり、友人でもあった。この時期、ゴーギャンは印象派の画家であったが、もはや印象派にはあきたらない思いをもっていた。ゴーギャンは原初的で本物の世界を、その根源にさかのぼって描くことに傾倒するようになっていく。1888年、彼は画家であるエミール・ベルナール(Emile Bernard)と出会う。彼らは一緒に 「ポンタヴェン派」のスタイルを創りあげる。単純な輪郭線で区切られた生き生きした色面と、遠近法を取り入れず、細部の描写を排除して、本質的なもののみを表現するスタイルを築いたのだった。ゴーギャンは1894年に永遠にフランス本土を去り、タヒチやマルケサス諸島へ発つが、それまで、数回にわたり、ポンタヴェンに滞在した。
このように1886年から1896年にかけて、ブルターニュには国際色豊かな画家が集まって一つのグループできあがり、彼らによって、型にはまった描写を排除して新しい絵画の形を極めようという芸術家のコミュニティが形成された。そこにおいて、絵画芸術は、ゴーギャンの言葉に従えば「すべてを敢然と断行する権利(le droit de tout oser )」を獲得したのだった。現代美術の第一歩がここで踏み出された。

ポンタヴェン、再び画家の村へ(Pont-Aven redevient cité des peintres)
1953年ごろ、オテル・ドゥ・ラ・ポスト(Hôtel de la Poste)は、親切で寛大な若いオーナーの下、新しい世代の芸術家を引き付けることになった。画家たちは、毎晩のようにバーやレストランに集っては熱い時間を過ごし、お互いに親交を深めていった。そこでは、地元の漁師がバカンスでパリからやってきた大使と言葉をかわす光景が見られたり、詩人のジョルジュ・ペロ(Georges Perros)など沢山のアーティストとも話が弾むという場面が出現した。ホテルの壁はオーナーが買い取ったりアーティストが残していった絵や版画で埋めつくされていた。しかし1979年、健康上の理由からオーナーはバー&レストランを閉めなくてはならなくなった。
その後、ホテルの建物は村役場として利用され、うち3部屋は展示会場として改修された。
ポンタヴェン派のアーティストや現代美術のアーティストの展示会は継続され、彼らの成功によってこの地を訪れる人々がますます増えていった。そして現代美術の作家たちは村にいくつも店を構え、1986年には新しく美術館がオープンした。村の4ヵ所のアトリエでは、この地にインスピレーションを求め、またかつてあれほどの才能を呼びさました雰囲気にひたるためやってくるアーティストを受け入ている。

著名人

ポール・ゴーギャンPaul Gauguin (1848-1903)
1886年、生活苦にあえいだゴーギャンはパリからポンタヴェンに逃れてくる。
彼はマリー=ジャンヌ・グロアネックの宿(pension de Marie-Jeanne Gloanec)に滞在した。この宿には多くの画家が生活していたが、その大半は外国人であった。ゴーギャンは、ここで印象派のサロンに出展する絵を何枚も描いたが、次第にその作風は変わっていった。
1888年、ポンタヴェンに2度目の滞在をすることとなったゴーギャンはエミール・ベルナール(Emile Bernard)と出会い、ともに既存の印象派の絵画に反旗を翻す新たなスタイルを築きあげた。それ以降、ゴーギャンは印象派の絵画は自然に対して忠実すぎるとして、彼らの新しいスタイルである総合主義、つまり本質的なもののみを表現するため、形を単純化して描く作風につき進んでいった。色彩も純化され、作品は現実を描きながらも想像の世界を表現するものとなった。1889年、3度目で、そして最後になったポンタヴェンの滞在は、彼のプリミティブ芸術への没入により記憶される。
ポンタヴェンには、ダヴッド水車(Moulin David)や、何よりも有名な「黄色いキリスト」のインスピレーションを受けたトレマロ礼拝堂(Chapelle de Trémalo)など、ゴーギャンが着想を得た数々の場所がある。ポンタヴェンに滞在した後、ゴーギャンはポンタヴェンから南東にいったプールデュ(Pouldu)に短期間滞在し、そしてタヒチに旅立った。