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モンパズィエ
Monpazier

その他

歴史

13世紀に、イギリス国王にして、アキテーヌ公爵であり、ノルマンディー公爵であるエドワード1世(アリエノールの孫)が、北部からの不意の攻撃から領地を守るために、モンパズィエ(Monpazier)に要塞都市を建設することを決めた。同じころ、ボーモンとモリエールの要塞都市も同じ理由で建設された。これにより、エドワード1世は防御のための陣地を3箇所得たので、敵軍の通過は困難になった。この要塞都市を建てるにあたり、この土地の領主であり、ビロンの男爵であったピエール・ドゥ・ゴントーが1286年に自分の領地の一部を君主であるエドワード1世に提供した。要塞都市の建設にはパレアージュという行為が伴う。これは、国王と領主の間で結ばれた要塞都市の建設の実行で、領主は土地を提供し、国王は庇護を与える。両者は要塞都市の共同所有者となり、利益も分配する。他方で、パレアージュの下では、要塞都市の住民は国王とビロンの領主に忠節を誓わなければならなかった。

1327年3月31日、フランス国王がモンパズィエを自分の支配下に置いた。次に、ブレティニー条約の後で、アキテーヌ公爵に町は返された。1363年から1398年の間、モンパズィエは何度もイギリス軍とフランス軍の手に渡った。戦争の混乱に加えて、いくつもの災難がこの町にふりかかった。1286年、干ばつによる作物の減収。1321年頃、チフス熱(ハンセン病患者が泉に毒を入れたとして責任を負わされた)。1350年頃、ペストが猛威をふるう。さらに、アンリ4世の死後、税金が急激に引き上げられ農民を苦しめた。納税を滞納した者には厳しい取立てがおこなわれた結果、暴動が起こった。これがクロカンの反乱である。1万人もの農民が、カプドゥロ(Capdrot)の紡績工であるビュファロの指揮の下で一丸となり、その運動は田舎の方にまで広まり、農民の群れが進む途中のすべての城を略奪し荒らした。結局ビュファロはギュイエンヌの地方総督に捕まった。しかし革命の時は、この町は暴力もなく冷静に陳情書を起草し、新しい町の普通選挙による選挙を整えた。(1790年、公式にドルドーニュ県が誕生した)

要塞都市の建設には困難が絶えなかった。ブルジョワジーの宣誓をした者は自分たちの家を建てさせたり、ここに住み着くのを先延ばしにした。そのために、1289年4月、工事が遅れた場合に罰金を徴収する仕組みができ、その罰金によって、町が囲われ、教会が建てられた。